メニュー型チラシの脅威に押し潰され
山崎 今にして思えば、高度経済成長期の成功は一過性でした。当時は若くて、安易な考えしかなく、この状態がずっと続いてほしい、続くに違いないと、頑なに信じ込んでいました。
今のように業界の横の繋がりもありませんでした。
──成功体験から抜けられなかった。
山崎 もう通用しなくなった成功体験です。
しばらくして、飛び込み営業を手伝って下さったパートさんが、少しずつ減っていきます。
──何があったんですか。
山崎 我々のパートさんは皆さん優秀でしたが、たまたま周りに採用がなくて、やむを得ず我々の求人に応募した方が多かった。しかし、バブル期には事務員や店員など良い仕事が増えてきますので、そちらに移っていきました。
飛び込み営業をする人材がいなくなったので、仕方なくチラシを折り込み始めました。
社名と電話番号を入れておけば注文が来るはずと思っていると、印刷会社の人がもったいないから裏にも何か載せたほうがいい、と言ってくれました。それで、塗装の種類と単価などを18アイテム載せました。
これが大好評で、どんどん仕事が入ってくるようになりました。競合が少なかったのです。
──わからないものですね。
山崎 しばらくして、ある大手企業が有望な市場としてリフォーム業界に目を付け、セミナーであるビジネスモデルを普及させ始めました。
我々のようにリフォーム専門の業者を独立系と言いますが、大手デベロッパー系、ハウスメーカー系のリフォーム業者が雨後の筍のように爆発的に増えていったのです。
それらの会社はメニュー型チラシをつくりました。レストランのメニューのように、できるだけ多くの商品を掲載し、どれも価格訴求型で安価です。
──御社はどうなりましたか。
山崎 もう谷底どころか断崖絶壁で、まず人員削減です。当時は3店舗でしたが、店長だけにして、それでもダメで、ぜんぶ本社に統合。いよいよ私とずっと一緒に頑張ってきた者の2人だけになりました。
苦しい時代がその後、10年間も続きます。
それでも、当初に5億円の売上まで伸びたので、1億円の地盤がありました。2人になると、逆に利益率がぐっと上がりました。
──規模が小さくなりましたが、ラクですね。
山崎 先ほどのメニュー型チラシに、いかがわしい部分はたくさんありますが、現実にはそれがお客様に支持されているわけです。
恥ずかしい話ですが、チラシの悪口を言っているときだけ、不安から解放されました。
──よくわかります。
山崎 それでは、実際に何も改善されません。1年ぐらいはどんどん落ちていきました。
血が出たらまず止めなければなりませんが、流れ出るまま、とにかく成長し続けるしかなかった。どんどん追いやられて、悪口を言っているときだけ、逃避できたのです。
意を決してセミナーに行ってみました。ほとんど聞くに足りない内容ばかりでしたが、唯一学んだのは、価格はお客様が決めるものだということです。
──どういうことですか。
山崎 我々は、問屋さんが卸してくれる価格に一定の利益を乗せて売る、としか考えていませんでした。しかし本当は、商品自体にいくらの価値があるかが重要なのです。
例えば当時、洗面化粧台がずいぶん普及していました。我々は60cm幅のものを10万円に設定しました。ところが、ホームセンターでは5万円で売っています。
お客様にとっての価値は5万円ですから、一定の利益がほしければその分を差し引いて仕入れなければならないのです。
──問屋が価格を決めてはいけない、ということですね。
山崎 中内功さんが提唱した「価格の決定権を製造メーカーから消費者に取り返す」ということです。お客様はいつも市場を見ているわけではありませんので、いちばんお客様に近い我々が価格を決めるのです。